モーツァルト ~ 遊戯の骨頂「エロス、叡智、無分別(Eros, Weisheit, Unvernunft)」

7月11日 ラインガウ音楽祭で、「エロス、賢明、無分別」と題したモーツァルトのプログラムを上演しました。
これは2019年、モーツァルト音楽祭で初演したものです。その年、当音楽祭のテーマは『モーツァルトはロマン的?』というものでした。総監督からドイツ・ロマン主義詩人のメーリケが書いた小説「旅の日のモーツァルト」を軸に、女優のコリンナ・ハールフォーフさんと朗読付きコンサートをしてほしいと依頼されたのがきっかけです。実は私たち、メーリケの小説の内容にいささか物足りなさを感じたので、「さて、どうしたものか…?」と頭を悩ませましたが、小説の柱である『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』を中心にして、モーツァルトの人間像に迫ることにしました。

リヒャルト・シュトラウスは、「モーツァルトのメロディーは地上的形態からはかけ離れたもので、いわゆるカントの言う“物それ自体”であり、プラトンの言うエロスのように、天と地の境や、死と不死の境をさまよっているものだ」と言っています。エロスとは何者なのか?これについて、プラトンの『饗宴』の中で、ディオティーマが “エロスは偉大なるデーモン”と言っています。デーモン(神霊)は現代思われているような悪魔ではなく、本来は神と人間の間に在って、天と地をつなぐ役を担っている存在で、そのデーモンのようなのがモーツァルトのメロディーだというシュトラウスの興味深い言葉を柱に、私たちはプログラムを作成しました。そして、エロスと言えば忘れてはいけないドン・ジョヴァンニ。「ケルビーノは少年時代のドン・ジョヴァンニだ」と指摘したキルケゴールの考察が、この二つのオペラを繋ぐ鍵となりました。

エロスは美しくも醜くもない、エロスは賢明さと無分別の境で見つけられる、エロスは美しくない、しかし美を求める、エロスは良くはない、しかし善を求める、エロスは老いてもいなければ若くもない、エロスはデーモンなのだ

エロスと言えば真っ先に頭に浮かぶのがドン・ジョヴァンニですが、“その前身がケルビーノだ”というキルケゴールの指摘は、図星です。それにしても、拙劣な内容を高度な芸術まで純化したモーツァルトの天才ぶりは、何と言えばよいのでしょう。真面目な話を立派そうに描くよりずっと困難なこと。これこそ、モーツァルトが正直に生きた証なのかもしれません。真面目という名のもとに、インスピレーションの無さをひた隠しにすることなど言語道断。それより、自分をそのまま生きるほうがずっとおもしろい。でも、彼の生き方は、尋常ではない…

モーツァルトの音楽はスーッと肌に馴染んでくるのに、彼の人間性を理解するのは容易ではありません。この矛盾だらけの人物は、人懐っこいかと思うと手に負えない。その魅力は追いかけても追いかけても掴めない、挙句の果ては笑いながらかわされてしまう。そんな妙味を味わってもらいたく制作したのがこのプログラムです。

『モーツァルトはロマン的?』というテーマにちなんだプロジェクトですから、モーツァルトの芸術を受け継いだ後世、特にロマン派の時代の作曲家たちについてもプログラムに組み込みました。モーツァルトの最後のピアノ曲『アダージョ ロ短調 KV540』がその橋渡しの一つとなっています。この作品とチャイコフスキーの交響曲第6番の第4楽章との類似点がロシアでは指摘されています。ホロヴィッツも、このピアノの小品について記しています。

「1788年、モーツァルトが32歳のときに書いたこの作品は、彼の最も主観的な作品のひとつであり、彼の感情の深さを示している。雰囲気としては、真剣さ、厳粛さ、パトスが漂うまさに驚異的な作品だ。展開部の半音階的な和声は、ショパンやワーグナーを予感させ、この点でモーツァルトは、ベートーヴェンからチャイコフスキー、ヴェルディに至るまで、後世の作曲家たちのハーモニーの基礎を築いたと言える」

チャイコフスキーの『悲愴』が初演されたとき、交響曲の終楽章としてアダージョ(最後はアンダンテになりますが)の楽章を書いて顰蹙を買ったチャイコフスキーでしたけど、彼の頭の中には一般には理解できない人生ドラマが息づいていたのでしょう。興味深い話です。

【演奏曲目】
モーツァルト:オペラ『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』から
       序曲、および数々のアリアをピアノ用に私自身で編曲したものを演奏
モーツァルト:アダージョ ロ短調 KV540
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番『月光』より 第1楽章
チャイコフスキー:交響曲 第6番『悲愴』より 抜粋

0コメント

  • 1000 / 1000