原田英代 BLOG 光と風に包まれて、愛も憂いも...

7月11日 ラインガウ音楽祭で、「エロス、賢明、無分別」と題したモーツァルトのプログラムを上演しました。

これは2019年、モーツァルト音楽祭で初演したものです。その年、当音楽祭のテーマは『モーツァルトはロマン的?』というものでした。総監督からドイツ・ロマン主義詩人のメーリケが書いた小説「旅の日のモーツァルト」を軸に、女優のコリンナ・ハールフォーフさんと朗読付きコンサートをしてほしいと依頼されたのがきっかけです。実は私たち、メーリケの小説の内容にいささか物足りなさを感じたので、「さて、どうしたものか…?」と頭を悩ませましたが、小説の柱である『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』を中心にして、モーツァルトの人間像に迫ることにしました。


リヒャルト・シュトラウスは、「モーツァルトのメロディーは地上的形態からはかけ離れたもので、いわゆるカントの言う“物それ自体”であり、プラトンの言うエロスのように、天と地の境や、死と不死の境をさまよっているものだ」と言っています。エロスとは何者なのか?これについて、プラトンの『饗宴』の中で、ディオティーマが “エロスは偉大なるデーモン”と言っています。デーモン(神霊)は現代思われているような悪魔ではなく、本来は神と人間の間に在って、天と地をつなぐ役を担っている存在で、そのデーモンのようなのがモーツァルトのメロディーだというシュトラウスの興味深い言葉を柱に、私たちはプログラムを作成しました。そして、エロスと言えば忘れてはいけないドン・ジョヴァンニ。「ケルビーノは少年時代のドン・ジョヴァンニだ」と指摘したキルケゴールの考察が、この二つのオペラを繋ぐ鍵となりました。


「エロスは美しくも醜くもない、エロスは賢明さと無分別の境で見つけられる、エロスは美しくない、しかし美を求める、エロスは良くはない、しかし善を求める、エロスは老いてもいなければ若くもない、エロスはデーモンなのだ」


エロスと言えば真っ先に頭に浮かぶのがドン・ジョヴァンニですが、“その前身がケルビーノだ”というキルケゴールの指摘は、図星です。それにしても、拙劣な内容を高度な芸術まで純化したモーツァルトの天才ぶりは、何と言えばよいのでしょう。真面目な話を立派そうに描くよりずっと困難なこと。これこそ、モーツァルトが正直に生きた証なのかもしれません。真面目という名のもとに、インスピレーションの無さをひた隠しにすることなど言語道断。それより、自分をそのまま生きるほうがずっとおもしろい。でも、彼の生き方は、尋常ではない…

モーツァルトの音楽はスーッと肌に馴染んでくるのに、彼の人間性を理解するのは容易ではありません。この矛盾だらけの人物は、人懐っこいかと思うと手に負えない。その魅力は追いかけても追いかけても掴めない、挙句の果ては笑いながらかわされてしまう。そんな妙味を味わってもらいたく制作したのがこのプログラムです。


『モーツァルトはロマン的?』というテーマにちなんだプロジェクトですから、モーツァルトの芸術を受け継いだ後世、特にロマン派の時代の作曲家たちについてもプログラムに組み込みました。モーツァルトの最後のピアノ曲『アダージョ ロ短調 KV540』がその橋渡しの一つとなっています。この作品とチャイコフスキーの交響曲第6番の第4楽章との類似点がロシアでは指摘されています。ホロヴィッツも、このピアノの小品について記しています。


「1788年、モーツァルトが32歳のときに書いたこの作品は、彼の最も主観的な作品のひとつであり、彼の感情の深さを示している。雰囲気としては、真剣さ、厳粛さ、パトスが漂うまさに驚異的な作品だ。展開部の半音階的な和声は、ショパンやワーグナーを予感させ、この点でモーツァルトは、ベートーヴェンからチャイコフスキー、ヴェルディに至るまで、後世の作曲家たちのハーモニーの基礎を築いたと言える」


チャイコフスキーの『悲愴』が初演されたとき、交響曲の終楽章としてアダージョ(最後はアンダンテになりますが)の楽章を書いて顰蹙を買ったチャイコフスキーでしたけど、彼の頭の中には一般には理解できない人生ドラマが息づいていたのでしょう。興味深い話です。


【演奏曲目】

モーツァルト:オペラ『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』から

       序曲、および数々のアリアをピアノ用に私自身で編曲したものを演奏

モーツァルト:アダージョ ロ短調 KV540

ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番『月光』より 第1楽章

チャイコフスキー:交響曲 第6番『悲愴』より 抜粋

6月11日、ルクセンブルグのマールナハという町の劇場で、リストとマリーの愛の遍歴を描いた言葉と音楽の言葉のコラボ、『私たちの愛のすべて、私たちの悲劇のすべて』を、女優のコリンナ・ハールフォーフさんと上演しました。これは2011年、リストの生誕200年祭を記念して制作したもので、久しぶりの公演となりました。

 

↓リストとマリー・ダグー


19世紀初めのパリ。愛と憎悪、嫉妬や羨望、さらに競争心の渦巻くサロンにおいて、貴族たちはこぞって作家や音楽家、画家たちを自宅に招いていました。その渦の中で運命はリストと6歳年上のマリー・ダグー伯爵夫人を引き合わせました。燃え上がるリストとマリーの激しい恋は留まるところを知らず、マリーはすべてを捨ててリストとスイスに逃避行します。何と無謀で勇気ある行為だったことか!しかし、この絶世の美女は、ピアノだけで生きてきたリストから、隠された他の才能を引き出していくこととなったのです。マリーは単なる美貌の貴婦人ではなく、やがて作家となっただけあって実に聡明な女性でした。

彼らは大自然の中で誰の眼も気にせず幸せな日々を過ごしますが、そんな夢のような日々が長く続くはずはありません。リストは隠遁生活を送るには若すぎたし、所詮ピアニストだったのです。リストがジュネーヴでリサイタルを開いたのをきっかけに、二人の関係に亀裂が生じます。舞台上でのリストは、マリーの眼に別世界の人間として映りました。それは彼女にとって喜びでもあり、悲しみでもあったのです。リストは演奏活動を再開し演奏旅行にマリーを同伴するつもりでしたが、世間の白い目にさらされてまで同行することは、彼女の自尊心が赦しませんでした。やがて二人の関係は悲劇的な結末を迎えることとなります。

リストとマリーの事件は、『アンナ・カレーニナ』さながらの出来事です。ヴロンスキーのアンナへの愛が薄れるにつれて、彼女が放った言葉と同じことをマリーも思っていたのではないでしょうか。

「私の愛はますます激しく、利己的なものになっていくのに、あのひとのはいよいようすれていく...わたしはやきもちやきではなくて、満たされないのだ。」

しかし、マリーはアンナのように自殺することはありませんでした。アンナは自分が死ぬことによって、ヴロンスキーが罪悪感を持つことを望みましたが、マリーはそのような愚かなことはしなかった。リストとの間に生まれた子供の親権を奪われても、マリーは生きていったのです。それはただ単に彼女が強かったというだけではなく、何よりもマリーが作家としての使命を見つけたおかげだったのではないかと思うのです。彼女は、のちにダニエル・ステルンという名の作家として蘇ります。

「もしもリストが私のもとにとどまってくれたなら、私はあなたのもとにいたでしょう。しかし、ダニエル・ステルンが暗闇から浮かび上がることはなかったでしょう。」(マリー・ダグー)

リストとの愛の日々において、彼女が味わった愉悦と苦悩は計り知れません。リストに逢ってさえいなければ、ダグー伯爵との愛のない夫婦生活であっても安定した人生が送れたはずなのに、激しい愛に燃えた挙句、愛とは獲得するものではないことを断腸の思いの中で知り、作家に変身したマリーの人生を思うとき、どれだけ苦難に満ちていようとも、彼女が自分の生命を生き抜いたことに感嘆するのです。

一方、リストも意味深長な文言を遺しています。

「愛は正義ではない。そして義務でもなく、享楽でもない。にもかかわらず、愛は不思議なことにこれらすべてのものを孕んでいる。愛を感じる方法も、愛を行為で示す術も数えきれないほどある。しかし、魂が完璧で不滅であることを渇望している人にとって、それは始まりも終わりもない、永遠に一つなのだ... 」

リストは生徒が「愛の夢」を弾くのを嫌ったと言います。なぜかはわかっていませんが、理由はいろいろに想像することができます。この話から、作曲家が残してくれた作品に敬意を払って接しなければならないと、改めて強く思うのです。


【演奏曲目】
超絶技巧練習曲第10番、ペトラルカのソネット第104番、ジュネーヴの鐘、演奏会用練習曲『ため息』、ワルツ即興曲、ハンガリー狂詩曲第17番、愛の夢第3番、コンソレーション第2番&第3番、アビラート(Ab Irato)

6月になって、ようやくドイツでは7か月ぶりにコンサートが解禁になりました。100%の集客は許されませんが、それでも始められるだけ、有難いです。

6月6日ヴュルツブルクのモーツァルト音楽祭における公演が皮切りとなりました。

今年100周年を迎えたこの音楽祭の記念公演の一環として、アウシュヴィッツ強制収容所で亡くなったヴァイオリニスト、アルマ・ロゼの生涯を描いた朗読付きコンサートの公演を依頼されました。共演者は、女優のコリンナ・ハールフォーフさんと、ヴァイオリニストのラティツァ・本田-ローゼンベルクさん。

なぜまた、モーツァルト音楽祭のお祝いの年に、このようなテーマを選ぶのか不思議でしたが、1月27日という日付がきっかけです。この日はモーツァルトの誕生日であると同時に、アウシュヴィッツ強制収容所が解放された日でもあるのです。その偶然の一致から、昨今ナショナリズムが台頭し、残念ながら人種差別が顕在する今日、私たちはそう遠くない過去に起こった残虐な行為をもう一度思い出す必要があるとモーツァルト音楽祭の総監督は考えたようです。彼女のこの勇気ある企画は大いに賞賛されるべきでしょう。

このプログラムは、9年前、ラインガウ音楽祭にマインツのシナゴークがコンサート会場として加えられたのを記念して、当音楽祭からの依頼で制作したものです。しかしその公演では、会場にユダヤ人の顔は見えませんでした。ロゼ一家はキリスト教に改宗していたという理由から、シナゴークに登録してるユダヤ人は、誰一人コンサートに現れなかったのです。悲しい出来事でした。


↓アルマ・ロゼ(1906-1944)

アルマ・ロゼはウィーン・フィルのコンサートマスターだったアルノルト・ロゼの娘で、グスタフ・マーラーの姪でした。生まれたときから音楽史上に燦然と輝く音楽家たちが家に出入りする環境で育ったアルマは、音楽以外何もできないお嬢様でしたが、ドイツ第三帝国がオーストリアを併合し、母の死という悲しみに直面した後、父を守ってとてつもない力を発揮します。父親と共に命からがらウィーンを飛び出し、イギリスへ逃亡を成功させた彼女でしたが、生計を立てるため逞しくも一人でヨーロッパ本土に戻ってオランダで演奏活動を始めたのでした。しかし、彼女の身には危険が押し寄せていました。オランダはすでにナチの手に落ちていたのです。アルマはフランスを通ってスイスに逃亡を図りますが、列車の中で捉えられ、アウシュヴィッツへ送られてしまいました。いざというときのために用意していた毒を塗った口紅も役に立たちませんでした。

美人だったアルマは、アウシュヴィッツで名高い人体実験のブロック10に入れられました。逃亡のため偽造結婚していた彼女のパスポートには見も知らずの人の名前が記されており、彼女がヴァイオリニストであることを知る人がいなかったのですが、死ぬ前に一度ヴァイオリンを弾きたいという彼女の申し出で素性が知れ、命拾いします。一命を取り留めた彼女は強制収容所で女性オーケストラの指揮者を任せられ、楽器が弾けなくても楽譜が書ける人がいれば起用するなどして、多くの女性たちの命を救ったのでした。

強制収容所には男性のオーケストラがあり、それはプロの音楽家たちによる集団でしたが、女性たちのオーケストラはほとんどがアマチュア。その彼女たちを厳しく指導し、演奏の水準を高めることにアルマは成功します。厳しくすることで団員たちの命が救えることを直感していた彼女は、あえて手をゆるめませんでした。アーサー・ミラーの制作した映画に“Playing for time”というのがあり、アウシュヴィッツとアルマについて描かれていますが、これは収容所にいたフランス人女性の偽証言をもとに描かれているため、あるまじきことにアルマは鬼のような人物として現れます。当然のごとく、この映画が封切された後、収容所にいた女性たちから抗議が殺到しました。しかし、一端受けた汚名はなかなか消えるものではありません。長い間アルマは誤解される羽目になりました。

さて、収容所で演奏される音楽を芸術と呼べるかどうかは別としても、この地獄でクラシック音楽が流れており、コンサートが行われていたのは事実です。しかしSS隊員が彼女たちの演奏を聴いて涙するも、コンサート会場を出るとまた人間をガス室へ送る鬼に早変わりしたという事実を、どう解釈すればよいのでしょう。これは、多くの問題を提起しています。中には心底音楽に心を動かされた隊員たちもいたことでしょう。しかし、音楽はSS隊員たちが、自分たちの悪の顔を仮面で隠す道具でしかなかったのではないかという気がしてなりません。音楽の威力を信じたいのは山々ですが、あの状況において音楽がそのような力を発揮するなどと考えるのはナイーヴでしょう。音楽は全体主義に勝てませんでした。優れた経歴を持つ医師メンゲレが音楽に精通しながらもどうしてあれだけの鬼畜になれたのか。 音楽を自分の優秀さを示す象徴のように扱った彼のような人間の存在を知るとき、我々は音楽とは何か、という問いの答えを真剣に考えさせられるのです。

共演しているヴァイオリニスト、本田-ローゼンベルクさんの母方のお祖父様とお祖母様はユダヤ人で、早々とアウシュヴィッツに送られました。お祖父様は奇跡的に生還なさいましたが、収容所のことはほとんど話そうとなさらなかったそうです。


当日演奏したプログラムは以下のとおりです。

【プログラム】
モーツァルト:ヴァイオリン・ソナタ KV304、305
ベートーヴェン:ヴァイオリン・ソナタ 第5番『春』より 第3楽章
ブラームス:ワルツ op.39より
ヤナーチェク:ヴァイオリン・ソナタ第3楽章
ドヴォルザーク:スラヴ舞曲 op.72 No.2
クライスラー:愛の悲しみ
ブロッホ:ニグン
フランク:ヴァイオリン・ソナタ 第1楽章
バッハ:無伴奏ヴァイオリン・ソナタ イ短調 第3楽章
モンティ:チャールダーシュ
サラサーテ:ツィゴイネルワイゼン
ベートーヴェン:ピアノ・ソナタ 第8番『悲愴』第2楽章
シューベルト:軍隊行進曲
シューマン:トロイメライ
ショパン:ノクターン 第20番 嬰ハ短調(遺作)


この実況録音は、7月22日ドイツ時間で20:05(日本時間:7月23日午前3:05)から、バイエルン放送局のラジオで放送されます。

詳しくは、私のホームページをご覧ください。

ラフマニノフを崇拝し彼を励まし続けたマリエッタ・シャギニャンは、ラフマニノフの謙虚さを「犯罪的なほどの精神的謙虚さ」と称していた。これに対して彼は彼女への手紙にしたためた。

「残念ながら私はこの“犯罪的なほどの謙虚さ”を持ち合わせています... これは、私が自分自身を信じられないことからきているのです。自分を信じる方法を教えて欲しいのです。」

彼の作品を聴くにつけ、また彼の写真を見るにつけ、とても自信のなかった人とは思えない。しかし、実際はそうだった。ゆえにピアノ・ソナタ第1番を書いた時も、イグムノフに指摘され、大幅にカットした。果たしてイグムノフが確かな見解を持っていたのか、疑わしい。オリジナルはどこかに残っているらしいが、これは公にされていない。

自分を信じられなくなったのは、交響曲第1番初演の大惨敗がきっかけだったのだろう。失敗の原因が、指揮を引き受けたグラズノフのズボラな練習にあったことを指摘するほどラフマニノフは大柄でなかった。さらに、この交響曲を滅茶苦茶に批判したキュイの音楽的感受性の低さが拍車をかけた。彼らはラフマニノフの独創性を理解できなかったのだ。しかしこの事件はラフマニノフの精神をズタズタに引き裂いた。もしあのとき精神科医のニコライ・ダーリがいなかったら、ラフマニノフは自殺しかねないところだっただろう。それほどまでに彼の神経衰弱はひどかった。

交響曲第1番は愛する人妻アンナへ捧げられていた。草稿には「A.L.へ」という献呈の文字と、『アンナ・カレーニナ』のエピグラフ「復讐は我にあり、我こそこの借りを返さん」が記されていた。人妻に恋をした彼の心は、すでに19歳のとき彼女に歌曲「いや、お願いだ、行かないで」作品4-1を捧げたことからも充分窺い知ることができる。アンナは友人のラドゥイジェンスキーの妻で美しいジプシーの女性であった。その彼女に捧げた作品が“身を切られる思いに苛まれた苦悩の時間”を与えたと彼は感じたのであろうか...

 アメリカに亡命した後、ラフマニノフ一家はスイスのフィアヴァルトシュテッテ湖湖畔に「セナル」と名付けられた別荘を持っていた。ある晩、この別荘を訪れた親友のシャリアーピンが、『黒い瞳』を歌った。これはジプシーの女性を謳ったロシア民謡だ。翌朝3時、メイドが起きて庭に出てみると、ラフマニノフがむせび泣いていた。

「聞いたかい、昨夜のシャリアーピンの歌を...」


(シャリアーピンの歌う『黒い瞳』です。)

チャイコフスキーにとって、1877年は忌まわしい年だった。彼は37歳。この歳になって何を血迷ったか彼はアントニーナ・ミリューコヴァと結婚する。そして一週間経たないうちに、自分の決意がとんでもなかったことを思い知る。結婚が魂を救ってくれることを夢見た彼の公算は、間違っていた。もともと結婚そのものに嫌悪感を抱いていながら、愛なき結婚に踏み切った背景には、道徳的苦悩の隠蔽があったのであろうか。それとも、『オネーギン』のタチアナのような状況にアントニーナを陥らせたくない慈悲の心があったのか。しかし、結婚前からすでに激しい神経発作に苦しんでいたチャイコフスキーの精神状態は、良くなるどころか発狂寸前だった。ある夜、彼は人目を忍んでモスクワ川の冷たい水に入り自殺を試みる。しかし、死には至らなかった。「死だけが解決策のように思われましたが、自殺するわけにはいかなかった」と彼は後日メック夫人に書き送っている。結局、アントニーナとの関係は、メック夫人の援助を得て、お金で決着がついた。しかし、離婚は成立しなかった。彼女に非があったわけではないので、離婚する理由にならず、彼らは終生籍を入れたままだった。

1893年、突如チャイコフスキーの死が報じられる。死因は未だに謎である。チィコフスキーの秘密は厳重に守られているのだ。コレラで亡くなった説と、同性愛者であることが発覚して自殺を強いられたという説があり、今日では自殺説が有力になっている。もし自殺の強要ということであれば、死刑の判決を受けたということになる。何と恐ろしい!死刑囚の汚名を着せられた彼が、死ぬまでの間をいかに過ごしていたのだろうかと思うと、いたたまれなくなる。しかし、真実のほどはわからない。

彼が同性愛者であったとすれば、ロシアで罪悪とされた特殊なエロスの世界を彷徨する自分に苦しんだことは容易に想像できる。今にも壊れそうなガラス細工のような子供だったチャイコフスキーが、生涯病的なまでの人見知りと鬱に苦しみ、挙句の果て不埒な行為と称される自分の愛の姿に悶々とするとは... しかし、この繊細で神経質な偉大なる人物は、生涯忠実な存在に擁護されていた。音楽だ。自分のことを語らなかった彼だが、自己の心的体験を音楽で誠実に表現することに一生を捧げた。そこには気取りも誇張もなかった。彼の音楽がまっすぐ心に訴えかけてくるのはそのためだ。当時西欧では彼の作品がロシア的すぎるとして批判されることもしばしばであったが、そのロシア的要素こそ彼の音楽が持つ情熱とメランコリーの源泉にほかならなかった。

死の9日前に初演された交響曲第6番『悲愴』は、ロシアの聴衆にも理解されなかった。しかし彼自身は自作中で最高の作品だと確信していた。この曲からは彼の内面の葛藤が聞こえてくる。第3楽章は生の喜びを表したと解釈されることも多いが、私には人間の様々な思いが錯綜している世界のように思えて、恐怖とも歓喜ともつかない戦慄を覚える。シューマンに通じる世界だ。続く終楽章はレクイエムだろうか。チャイコフスキーが、この作品を亡くなった友人のレクイエムとして書いたという証言が残っている。興味深いことに、この楽章とモーツァルトのピアノのための小品『アダージョ』KV540の類似点が指摘されている。チャイコフスキーが愛してやまなかったモーツァルトと合体したこの楽章は、奇しくも作曲者自身へのレクイエムとなった。


(名優スモクトゥノフスキーがチャイコフスキーを演じるロシア映画『チャイコフスキー』がYouTubeでご覧いただけます。字幕を英語に設定することも可能です。)


第1部 https://www.youtube.com/watch?v=dyp4p9dfHbg

第2部 https://www.youtube.com/watch?v=DtCtiBPl1Ws



シューマンがライン川に身を投げたことはよく知られている。1854年彼が44歳のときのことだった。自殺は幸い未遂に終わったが、自ら精神病院に行くことを望み、二度と自宅のクララのもとに戻ることはなかった。

彼がしかし自殺というものを身近に感じるようになったのは、15歳のときのことだった。愛する姉エミリエの投身自殺は、彼を謎の世界に引き摺り込む。彼は自分も投身するのではないかという恐怖に駆られて、決して二階より上の階に住もうとはしなくなった。さらに翌年にはシューマンの音楽家への道を擁護してくれていた父が亡くなり、シューマンの心の傷に追い打ちをかける。

シューマンが迷い込んだ世界は、荘子の『胡蝶の夢』に似ている。

荘子が蝶になる夢を見る。目が覚めると、荘子は自分が人間だと気づく。しかし、そこで彼は思う。人間である自分が蝶になる夢を見たのか、それとも蝶である自分が人間になる夢を見ているのか。どちらが夢で、どちらが現実か区別がつかない。

現実と幻想が入り混じる文学を書いたE.T.A.ホフマンをシューマンが愛したのもよくわかる。シューマンの幻想性もホフマンに匹敵する。ゆえにシューマンが作品に託した音をみつけるのは容易ではない。彼の心は、ものすごく繊細に、そしてものすごく情熱的に感じることができた。それは普通の人間が感じる世界をはるかに凌駕している。もしも彼の作品の背景に姉の自殺が大きくかかわっているとすれば、ここに眠る美の正体は得体のしれないものなのだ。

ベートーヴェンは真剣に自殺を考えたことがあったらしい。それはかの有名な『ハイリゲンシュタットの遺書』とはまた違う時期だ。1812年に第7、第8交響曲を書いた後から1818年までの間のこと。1812年といえばナポレオン戦争の真っただ中。ヨーロッパ中がナポレオンに荒らされていた時期だった。ウィーンもその渦中にあった。年金が予定通りに払われないベートーヴェンは食糧危機に喘ぎ、健康も酷く損ね、挙句の果て弟子で恋人だったヨゼフィーネ・ダイム夫人との間に娘が生まれてしまい、精神的打撃も加わった。この事態において、彼は作曲の霊感も失う。愚作『ウエリントンの勝利』を書いたのだ。これが、共和主義者であったベートーヴェンが自分の信念にそむいて旧体制へ加担する行為であったことに気づいたときは、すでに完全に霊感から見放されていた。その時期に、彼はインド哲学書に巡り合う。

「あらゆる激情を抑制して、事の正否を顧みず、人生のあらゆる事柄を精力的に遂行する人は幸福である。問題は行為の動機であって、その結果ではない。報酬が行為の動機であり、それを目当てとするような人になるな...」

彼のメモ帳に残っていた言葉だ。

この苦難を乗り切り、1820年から1822年にかけて最後の3曲のピアノ・ソナタが生まれる。彼の作風は大きく変わり、見事に蘇ったフェニックスの姿を見せる。

私たち東洋人は、丹田の重要性を知っています。臍下丹田に意識を集中させると、重心が下がって身体が安定し落ち着けるといわれています。丹田を鍛えることによって気が充実するというこの考えにはまっていた私は、演奏中も丹田に意識を持っていくことは当然と思っていたのです。あるとき、メルジャーノフ先生に、「日本では丹田に意識を持っていくことを推奨されている」と言うと、彼は答えました。「私は胃に中心をもっていっている」と。

胃? 私は胃に中心を持っていくなど考えたこともなかったのでビックリ仰天。

「どうしたら、胃に中心をもっていってあのような演奏ができるのだろうか?」


この話は、私の拙著『ロシア・ピアニズムの贈り物』にしたためましたが、今日はその謎解きの続編をお伝えしようと思います。

本の第6章で詳しく触れておきましたが、どうもわかりにくいようなので、今日はほかの言葉でお伝えします。彼は要するに大腰筋を使っていたのです。

この赤い部分、これが大腰筋で、ちょうどみぞおちの奥から始まっています。つまり、普通にいうならば胃の部分ということになります。彼の精神性高い音楽芸術の描出を可能にした力強さとしなやかさの相まった演奏は、この身体のメカニズムから生まれていたのです。

彼は「指だけで弾くのではない!身体の重みをすべて使うのだ!」とは言ってくれましたが、もっと奥の軸のことについてはあまり触れませんでした。生徒は先生の弾く姿から学ぶしかなかったのです。現に「私の演奏から盗み取りなさい。」と彼は言っていました。もっとも、インナーマッスルのことなど、教えようもなかったでしょうが。いずれにしても、彼はいつも弾いてくれました。贅沢な話です。

彼の指は一本一本が象の足のように太く、鍛え抜かれていました。小指でさえも太かったを覚えています。そしてその太い指が舞うように鍵盤の上を飛び回るのですが、その支えとなっていたのが大腰筋だったのです。また、大腰筋が使えていたからこそ、手首が柔らかく保てたのだということが納得できます。彼の手首は音楽に合わせて呼吸をしているかのように見えました。手首には靭帯がありますし、その上数多くの細かい骨が連なっています。彼の場合、それがうまく連なって、滑らかに手と腕をつなげ、決して指の動きを邪魔しなかったのです。その動きは実に美しく芸術そのものでした。

これは私の勘ですけど、胃を中心にして弾いていらしたメルジャーノフ先生の第3チャクラ、マニプラ・チャクラは、きっと燦然と輝いていたのだと思います。あの生命エネルギーは並大抵のものではありませんでしたから。

2年半前、夫がガンを宣告された日、忘れもしないあの日、

病状はかなり深刻な状況に陥っていた。

夫は自分の前に立ちはだかる治療の多さに、すでに生きる意欲を失った。

二度目の手術の前、彼の心は明らかに死を選んでいた。

会話からこの恐るべき事態を察知した私は、震え上がった。

たまたまその日は土砂降りの大雨で、我が家の半地下は浸水寸前だった。

私はバケツで水の汲み出しに追われた。

雨の中でひたすら水を汲む私を見て、夫は“生きなければいけない”と思ったらしい。

恵みの雨だった。


3回の手術に耐え、そのあと、2リットルの血を吐いた危機も乗り切り、退院できた。

さあこれからは放射線療法と抗癌剤治療を終えればいいと思っていたが、大間違いだった。

毎週5日の放射線療法と週1回の抗癌剤投与は彼を苦しめた。

喉頭ガンだったため、放射線療法で喉は焼けただれ、食事が喉を通らなくなった。

胃瘻をつけた。49歳で胃瘻は精神的にも苦痛だった。


すべての療法を終えたとき、彼が院内感染していることがわかった。

そのためリハビリの病院から追い出された。

自宅療養が始まった。毎日点滴で栄養を摂った。

来る日も来る日も吐き気との戦いだった。

挙句の果て、点滴の針から黴菌が入り、呼吸困難に陥った。

救急車で運ばれる彼の顔は、すでに死神のようだった。

レントゲンに映った肺の黒い影は何なのか...

肺炎か肺ガンか、抗生物質の反応を見てからでなければわからないと医者に言われた。

結果が出たのは1か月後。駒は吉に出た。影は消えていた!


彼の入院中、私はコンサートのとき以外、毎日病院に通った。

病院の食事が彼の喉を通らなかったので、毎日キビのおかゆやスープを運んだ。

しかし食事のためだけではない。毎日病院に行ったのは夫を守るためだった。

夫の喉の痛みが取れないのは気のせいだと診断した医師は、彼を精神科に送ろうとした。

私はそんな考えを受け付けなかった。バカ呼ばわりされても、引き下がらなかった。

医者はまるでSSにでもいたのではないかと思いたくなるような恐ろしい人物だった。

そんな医者や看護婦と喧嘩する気力などない夫を助けられるのは、私しかいなかった。


何度も夫は天国の入り口まで行ったが、神は彼を地上に追い返してくれた。

今では仕事にも復帰でき、いただいた新たないのちを大切にしなくては、と張り切っている。

しかし、今、友人が恐ろしい病魔に取り憑かれてしまった。

ALSの疑いがあると言われたのだ。

ピアニストである彼が、腕が上がらないと告白したのは一年近く前のことだった。

そのときは、まさかそんな深刻なこととは、思いもよらなかった。

何しろ昨年4月、バッハのチェンバロ協奏曲全7曲を一夜に弾き振りしているのだから。


数々の検査を重ねた結果、やはりALSだと診断された。

だが、友人は治るつもりでいる。

医者に「もうあなたはピアノを弾けない」と言われ、彼は怒り心頭なのだ。

“治る可能性の芽すらもぎ取ってしまう医者に、自分の人生を決められてなるものか!

自分は必ず治って、医者を見返してやる!“と彼は言う。

この猛烈なパワーに、彼の演奏が重なる。


お互いコンクールで競い合った仲だが、彼は昔から情熱的な演奏する人だった。

彼の音楽を愛する心の強さが、この病魔に打ち克つことに望みをかけたい。

潜在意識が自分の人生を決めるのであれば、彼は病気を克服できるだろう。

最もいのちを大切にできるのは、自分自身なのだ。

彼の勇気に脱帽し、私たちは毎日心からの声援を送っている。