原田英代 BLOG 光と風に包まれて、愛も憂いも...

ラフマニノフを崇拝し彼を励まし続けたマリエッタ・シャギニャンは、ラフマニノフの謙虚さを「犯罪的なほどの精神的謙虚さ」と称していた。これに対して彼は彼女への手紙にしたためた。

「残念ながら私はこの“犯罪的なほどの謙虚さ”を持ち合わせています... これは、私が自分自身を信じられないことからきているのです。自分を信じる方法を教えて欲しいのです。」

彼の作品を聴くにつけ、また彼の写真を見るにつけ、とても自信のなかった人とは思えない。しかし、実際はそうだった。ゆえにピアノ・ソナタ第1番を書いた時も、イグムノフに指摘され、大幅にカットした。果たしてイグムノフが確かな見解を持っていたのか、疑わしい。オリジナルはどこかに残っているらしいが、これは公にされていない。

自分を信じられなくなったのは、交響曲第1番初演の大惨敗がきっかけだったのだろう。失敗の原因が、指揮を引き受けたグラズノフのズボラな練習にあったことを指摘するほどラフマニノフは大柄でなかった。さらに、この交響曲を滅茶苦茶に批判したキュイの音楽的感受性の低さが拍車をかけた。彼らはラフマニノフの独創性を理解できなかったのだ。しかしこの事件はラフマニノフの精神をズタズタに引き裂いた。もしあのとき精神科医のニコライ・ダーリがいなかったら、ラフマニノフは自殺しかねないところだっただろう。それほどまでに彼の神経衰弱はひどかった。

交響曲第1番は愛する人妻アンナへ捧げられていた。草稿には「A.L.へ」という献呈の文字と、『アンナ・カレーニナ』のエピグラフ「復讐は我にあり、我こそこの借りを返さん」が記されていた。人妻に恋をした彼の心は、すでに19歳のとき彼女に歌曲「いや、お願いだ、行かないで」作品4-1を捧げたことからも充分窺い知ることができる。アンナは友人のラドゥイジェンスキーの妻で美しいジプシーの女性であった。その彼女に捧げた作品が“身を切られる思いに苛まれた苦悩の時間”を与えたと彼は感じたのであろうか...

 アメリカに亡命した後、ラフマニノフ一家はスイスのフィアヴァルトシュテッテ湖湖畔に「セナル」と名付けられた別荘を持っていた。ある晩、この別荘を訪れた親友のシャリアーピンが、『黒い瞳』を歌った。これはジプシーの女性を謳ったロシア民謡だ。翌朝3時、メイドが起きて庭に出てみると、ラフマニノフがむせび泣いていた。

「聞いたかい、昨夜のシャリアーピンの歌を...」


(シャリアーピンの歌う『黒い瞳』です。)

チャイコフスキーにとって、1877年は忌まわしい年だった。彼は37歳。この歳になって何を血迷ったか彼はアントニーナ・ミリューコヴァと結婚する。そして一週間経たないうちに、自分の決意がとんでもなかったことを思い知る。結婚が魂を救ってくれることを夢見た彼の公算は、間違っていた。もともと結婚そのものに嫌悪感を抱いていながら、愛なき結婚に踏み切った背景には、道徳的苦悩の隠蔽があったのであろうか。それとも、『オネーギン』のタチアナのような状況にアントニーナを陥らせたくない慈悲の心があったのか。しかし、結婚前からすでに激しい神経発作に苦しんでいたチャイコフスキーの精神状態は、良くなるどころか発狂寸前だった。ある夜、彼は人目を忍んでモスクワ川の冷たい水に入り自殺を試みる。しかし、死には至らなかった。「死だけが解決策のように思われましたが、自殺するわけにはいかなかった」と彼は後日メック夫人に書き送っている。結局、アントニーナとの関係は、メック夫人の援助を得て、お金で決着がついた。しかし、離婚は成立しなかった。彼女に非があったわけではないので、離婚する理由にならず、彼らは終生籍を入れたままだった。

1893年、突如チャイコフスキーの死が報じられる。死因は未だに謎である。チィコフスキーの秘密は厳重に守られているのだ。コレラで亡くなった説と、同性愛者であることが発覚して自殺を強いられたという説があり、今日では自殺説が有力になっている。もし自殺の強要ということであれば、死刑の判決を受けたということになる。何と恐ろしい!死刑囚の汚名を着せられた彼が、死ぬまでの間をいかに過ごしていたのだろうかと思うと、いたたまれなくなる。しかし、真実のほどはわからない。

彼が同性愛者であったとすれば、ロシアで罪悪とされた特殊なエロスの世界を彷徨する自分に苦しんだことは容易に想像できる。今にも壊れそうなガラス細工のような子供だったチャイコフスキーが、生涯病的なまでの人見知りと鬱に苦しみ、挙句の果て不埒な行為と称される自分の愛の姿に悶々とするとは... しかし、この繊細で神経質な偉大なる人物は、生涯忠実な存在に擁護されていた。音楽だ。自分のことを語らなかった彼だが、自己の心的体験を音楽で誠実に表現することに一生を捧げた。そこには気取りも誇張もなかった。彼の音楽がまっすぐ心に訴えかけてくるのはそのためだ。当時西欧では彼の作品がロシア的すぎるとして批判されることもしばしばであったが、そのロシア的要素こそ彼の音楽が持つ情熱とメランコリーの源泉にほかならなかった。

死の9日前に初演された交響曲第6番『悲愴』は、ロシアの聴衆にも理解されなかった。しかし彼自身は自作中で最高の作品だと確信していた。この曲からは彼の内面の葛藤が聞こえてくる。第3楽章は生の喜びを表したと解釈されることも多いが、私には人間の様々な思いが錯綜している世界のように思えて、恐怖とも歓喜ともつかない戦慄を覚える。シューマンに通じる世界だ。続く終楽章はレクイエムだろうか。チャイコフスキーが、この作品を亡くなった友人のレクイエムとして書いたという証言が残っている。興味深いことに、この楽章とモーツァルトのピアノのための小品『アダージョ』KV540の類似点が指摘されている。チャイコフスキーが愛してやまなかったモーツァルトと合体したこの楽章は、奇しくも作曲者自身へのレクイエムとなった。


(名優スモクトゥノフスキーがチャイコフスキーを演じるロシア映画『チャイコフスキー』がYouTubeでご覧いただけます。字幕を英語に設定することも可能です。)


第1部 https://www.youtube.com/watch?v=dyp4p9dfHbg

第2部 https://www.youtube.com/watch?v=DtCtiBPl1Ws



シューマンがライン川に身を投げたことはよく知られている。1854年彼が44歳のときのことだった。自殺は幸い未遂に終わったが、自ら精神病院に行くことを望み、二度と自宅のクララのもとに戻ることはなかった。

彼がしかし自殺というものを身近に感じるようになったのは、15歳のときのことだった。愛する姉エミリエの投身自殺は、彼を謎の世界に引き摺り込む。彼は自分も投身するのではないかという恐怖に駆られて、決して二階より上の階に住もうとはしなくなった。さらに翌年にはシューマンの音楽家への道を擁護してくれていた父が亡くなり、シューマンの心の傷に追い打ちをかける。

シューマンが迷い込んだ世界は、荘子の『胡蝶の夢』に似ている。

荘子が蝶になる夢を見る。目が覚めると、荘子は自分が人間だと気づく。しかし、そこで彼は思う。人間である自分が蝶になる夢を見たのか、それとも蝶である自分が人間になる夢を見ているのか。どちらが夢で、どちらが現実か区別がつかない。

現実と幻想が入り混じる文学を書いたE.T.A.ホフマンをシューマンが愛したのもよくわかる。シューマンの幻想性もホフマンに匹敵する。ゆえにシューマンが作品に託した音をみつけるのは容易ではない。彼の心は、ものすごく繊細に、そしてものすごく情熱的に感じることができた。それは普通の人間が感じる世界をはるかに凌駕している。もしも彼の作品の背景に姉の自殺が大きくかかわっているとすれば、ここに眠る美の正体は得体のしれないものなのだ。

ベートーヴェンは真剣に自殺を考えたことがあったらしい。それはかの有名な『ハイリゲンシュタットの遺書』とはまた違う時期だ。1812年に第7、第8交響曲を書いた後から1818年までの間のこと。1812年といえばナポレオン戦争の真っただ中。ヨーロッパ中がナポレオンに荒らされていた時期だった。ウィーンもその渦中にあった。年金が予定通りに払われないベートーヴェンは食糧危機に喘ぎ、健康も酷く損ね、挙句の果て弟子で恋人だったヨゼフィーネ・ダイム夫人との間に娘が生まれてしまい、精神的打撃も加わった。この事態において、彼は作曲の霊感も失う。愚作『ウエリントンの勝利』を書いたのだ。これが、共和主義者であったベートーヴェンが自分の信念にそむいて旧体制へ加担する行為であったことに気づいたときは、すでに完全に霊感から見放されていた。その時期に、彼はインド哲学書に巡り合う。

「あらゆる激情を抑制して、事の正否を顧みず、人生のあらゆる事柄を精力的に遂行する人は幸福である。問題は行為の動機であって、その結果ではない。報酬が行為の動機であり、それを目当てとするような人になるな...」

彼のメモ帳に残っていた言葉だ。

この苦難を乗り切り、1820年から1822年にかけて最後の3曲のピアノ・ソナタが生まれる。彼の作風は大きく変わり、見事に蘇ったフェニックスの姿を見せる。

私たち東洋人は、丹田の重要性を知っています。臍下丹田に意識を集中させると、重心が下がって身体が安定し落ち着けるといわれています。丹田を鍛えることによって気が充実するというこの考えにはまっていた私は、演奏中も丹田に意識を持っていくことは当然と思っていたのです。あるとき、メルジャーノフ先生に、「日本では丹田に意識を持っていくことを推奨されている」と言うと、彼は答えました。「私は胃に中心をもっていっている」と。

胃? 私は胃に中心を持っていくなど考えたこともなかったのでビックリ仰天。

「どうしたら、胃に中心をもっていってあのような演奏ができるのだろうか?」


この話は、私の拙著『ロシア・ピアニズムの贈り物』にしたためましたが、今日はその謎解きの続編をお伝えしようと思います。

本の第6章で詳しく触れておきましたが、どうもわかりにくいようなので、今日はほかの言葉でお伝えします。彼は要するに大腰筋を使っていたのです。

この赤い部分、これが大腰筋で、ちょうどみぞおちの奥から始まっています。つまり、普通にいうならば胃の部分ということになります。彼の精神性高い音楽芸術の描出を可能にした力強さとしなやかさの相まった演奏は、この身体のメカニズムから生まれていたのです。

彼は「指だけで弾くのではない!身体の重みをすべて使うのだ!」とは言ってくれましたが、もっと奥の軸のことについてはあまり触れませんでした。生徒は先生の弾く姿から学ぶしかなかったのです。現に「私の演奏から盗み取りなさい。」と彼は言っていました。もっとも、インナーマッスルのことなど、教えようもなかったでしょうが。いずれにしても、彼はいつも弾いてくれました。贅沢な話です。

彼の指は一本一本が象の足のように太く、鍛え抜かれていました。小指でさえも太かったを覚えています。そしてその太い指が舞うように鍵盤の上を飛び回るのですが、その支えとなっていたのが大腰筋だったのです。また、大腰筋が使えていたからこそ、手首が柔らかく保てたのだということが納得できます。彼の手首は音楽に合わせて呼吸をしているかのように見えました。手首には靭帯がありますし、その上数多くの細かい骨が連なっています。彼の場合、それがうまく連なって、滑らかに手と腕をつなげ、決して指の動きを邪魔しなかったのです。その動きは実に美しく芸術そのものでした。

これは私の勘ですけど、胃を中心にして弾いていらしたメルジャーノフ先生の第3チャクラ、マニプラ・チャクラは、きっと燦然と輝いていたのだと思います。あの生命エネルギーは並大抵のものではありませんでしたから。

2年半前、夫がガンを宣告された日、忘れもしないあの日、

病状はかなり深刻な状況に陥っていた。

夫は自分の前に立ちはだかる治療の多さに、すでに生きる意欲を失った。

二度目の手術の前、彼の心は明らかに死を選んでいた。

会話からこの恐るべき事態を察知した私は、震え上がった。

たまたまその日は土砂降りの大雨で、我が家の半地下は浸水寸前だった。

私はバケツで水の汲み出しに追われた。

雨の中でひたすら水を汲む私を見て、夫は“生きなければいけない”と思ったらしい。

恵みの雨だった。


3回の手術に耐え、そのあと、2リットルの血を吐いた危機も乗り切り、退院できた。

さあこれからは放射線療法と抗癌剤治療を終えればいいと思っていたが、大間違いだった。

毎週5日の放射線療法と週1回の抗癌剤投与は彼を苦しめた。

喉頭ガンだったため、放射線療法で喉は焼けただれ、食事が喉を通らなくなった。

胃瘻をつけた。49歳で胃瘻は精神的にも苦痛だった。


すべての療法を終えたとき、彼が院内感染していることがわかった。

そのためリハビリの病院から追い出された。

自宅療養が始まった。毎日点滴で栄養を摂った。

来る日も来る日も吐き気との戦いだった。

挙句の果て、点滴の針から黴菌が入り、呼吸困難に陥った。

救急車で運ばれる彼の顔は、すでに死神のようだった。

レントゲンに映った肺の黒い影は何なのか...

肺炎か肺ガンか、抗生物質の反応を見てからでなければわからないと医者に言われた。

結果が出たのは1か月後。駒は吉に出た。影は消えていた!


彼の入院中、私はコンサートのとき以外、毎日病院に通った。

病院の食事が彼の喉を通らなかったので、毎日キビのおかゆやスープを運んだ。

しかし食事のためだけではない。毎日病院に行ったのは夫を守るためだった。

夫の喉の痛みが取れないのは気のせいだと診断した医師は、彼を精神科に送ろうとした。

私はそんな考えを受け付けなかった。バカ呼ばわりされても、引き下がらなかった。

医者はまるでSSにでもいたのではないかと思いたくなるような恐ろしい人物だった。

そんな医者や看護婦と喧嘩する気力などない夫を助けられるのは、私しかいなかった。


何度も夫は天国の入り口まで行ったが、神は彼を地上に追い返してくれた。

今では仕事にも復帰でき、いただいた新たないのちを大切にしなくては、と張り切っている。

しかし、今、友人が恐ろしい病魔に取り憑かれてしまった。

ALSの疑いがあると言われたのだ。

ピアニストである彼が、腕が上がらないと告白したのは一年近く前のことだった。

そのときは、まさかそんな深刻なこととは、思いもよらなかった。

何しろ昨年4月、バッハのチェンバロ協奏曲全7曲を一夜に弾き振りしているのだから。


数々の検査を重ねた結果、やはりALSだと診断された。

だが、友人は治るつもりでいる。

医者に「もうあなたはピアノを弾けない」と言われ、彼は怒り心頭なのだ。

“治る可能性の芽すらもぎ取ってしまう医者に、自分の人生を決められてなるものか!

自分は必ず治って、医者を見返してやる!“と彼は言う。

この猛烈なパワーに、彼の演奏が重なる。


お互いコンクールで競い合った仲だが、彼は昔から情熱的な演奏する人だった。

彼の音楽を愛する心の強さが、この病魔に打ち克つことに望みをかけたい。

潜在意識が自分の人生を決めるのであれば、彼は病気を克服できるだろう。

最もいのちを大切にできるのは、自分自身なのだ。

彼の勇気に脱帽し、私たちは毎日心からの声援を送っている。